ボクは小さい頃から、あんまりきっぱりと、
決めたくない質です。
なにがやりたいんだ、と尋ねられても、
自分でもよくわかんないよなと思ってしまう。
じゃあ、なんでもいいのかっていうと、
それは違ってて、ただ決めたくないのです。
ボクはどこかのなにかにつながってて、
ぼんやりとしたつながりのなかで、
ものごとが決まっていくほうがいい。
そういう考え方をしてまうのです。
ところが、そういう考えは、
ヒトに言っても伝わりませんね。
そんなことは経験の中でよくわかってます。
だから、空気を読んでもっともらしいことを言ったりしますが、
ほんとのところは、言ってることと思ってることは、
方向は合ってるものの、解像度が随分と違うのです。
感じてることは、もっともっと複雑で、
言ってることは、すごく単純ということです。
せんだって「体罰は絶対にダメですよね。
とすごく若い女の子に尋ねられました。
ボクは少し考えたふりをして、
「そうだね。体罰ね、そりゃ、ダメだろうね」
と言いました。口車を合わせたんです。
「ほんと、子どもにちゃんと向き合えば、、、、」
と彼女は先を続けましたが、ボク自身は体罰をダメとかどうとか、
そんなことわからないよなと思います。
だからといって、
「体罰だってときには必要だよ」などと肯定した口ぶりをすれば、
「なんですって!!」と非難めいた顔されるに決まってます。
だから、「そりゃ、ダメだろうね」と言ったに過ぎない。
体罰はダメだとしたって、
陰湿な言葉を浴びせたりするのはいくらでもいます。
冷酷な態度で圧力かけてくるのもいるでしょう。
そういうのもダメだとすれば、
言うこと聞かない連中とは一切関わらない、
無視したり投げやりに仕事をしたりする者も出てくるでしょう。
あれするな、これするなとわめいてみても、
もぐらたたきみたいなもんで、なくなったように見えて、
どこかに歪みが出てくるだけです。
潜伏してしまった問題は、本質が見えづらく、
いつも、ぼんやりしていたい。
ぼんやりしたなかに感じるものが、本質に近い、
そういう気持ちでいつもいます。
『蜂と神様』という金子みすゞの詩です。
蜂は お花の中に
お花は お庭の中に
お庭は 土塀の中に
土塀は 町の中に
町は 日本の中に
日本は 世界の中に
世界は 神様の中に
そうして そうして 神様は
小さな 蜂の中に