「空き家をボクたちの手で活用したい」と、
春頃からアナウンスしていたら、
「母が使っていた空き家があるんですけど、
そのままになっているので、どうぞ見に来てください」
という話がボクにありました。
早速、見に行き、まずは掃除をする段取りを付けました。
そして数日前、
掃除しました。
都内近郊、猛暑。
大きな家にエアコンひとつ。
はて。
家の中はモノで溢れかえっている。
片付けても、片付けても、モノモノモノ。
一階も二階もモノモノモノ。
聞けば。
老いた母は施設に入っているそうで、
もうすべて捨ててかまいません、と。
みんなで袋に詰めて、詰めて、詰めて、詰めて。
2トントラックを借りて、近くのゴミ処理場まで運ぶ。
早朝から始めて、夕方まで黙々と片付けていく。
タンスの引き出しからは、一度も袖を通していないようなモノが、
どんどん出てくる。
「ごめんなさい、しのびないけど、捨てます」
お金をかけて買ったものを、お金を払って捨てていく。
これはなんの悪い冗談なんだろうか。
片付けながら「豊かさ」とはなんなのか、とボクは考えた。
おそらくボクだけじゃなく、参加したヒトは考えたと思う。
ボクよりも若い参加者は、そんな顔つきをしている。
このお宅がとりわけ異常ということはない。
どの家も似たり寄ったりだろう。
みんなどこか、心当たりがあるから神妙な顔になる。
見ていないけど、巷に溢れている安いものが、
あなたの家の中にも侵食しているはずだ。
ボクが若いときは、日本は経済大国なんだ、と威張っていた。
けれど、あれから数十年。
問題は山積みのままになっている。
「豊かさ」とは、「お金があること」で、
すると「寂しさ」が増し、なにかが「愛に麻痺」して、
要るものと要らないものとの区別がつかなくなり、
「寂しさ」を埋めるために「購買」してしまう。
モノを売るために、ヒトをバラバラにし、
寂しくさせればいいのだ。
それ考えたヒトは天才だと思う、友だちになりたい。
トラック二回分の捨てられたモノが、
誰かの「寂しさ」を埋めるためのモノだとしたら、
なんとも切ないではないか。
「豊かさ」はお金で買えないとヒトは言う。
精神的なゆとりこそが「豊かさ」だとヒトは言う。
だからこの国の政策は正さなくてはいけないのだともヒトは言う。
「ふーん、あっそ」とボクは思う。
政治で国を良くしていこうとしているヒトに、
水を差す気はないけれど。
なにを買うのか、なにを買わないのか。
「購買」こそが、いますぐできる直接的な「投票」ではないか。
ほら、あなたの持っているそのペットボトルやお薬。
それその行動が「投票」なのだよ。
、、、、とまぁ、余計なお世話でした。