ヒトの使い方と使われ方について

昔からヒトを使う立場にいる側です。
元々そういう性分なんだと思います。
使われるのは向いてません。

ボクは大きな組織や権力とは無縁の生活をしているので、
せいぜい、空き地や原っぱのサイズで、
ヒトを使っている、その規模でのはなし。

使う側にも、使われる側にも、ちょっとした心得がいるなと感じます。
ちょっとした心得、がわかってない、
もしくはわかってはいるけどできていない組織は崩壊します。
崩壊した組織に属すことほど、残酷なストレスはありません。
そういう例はたくさん見ています。

まず使う側の心得。

誰かになにかを教えなければならないとする。
遊びでも仕事でもなんでもいい。
まず具体的な完成形のイメージ、
そのとき注意しなくてはいけない点、ひとつだけをざっと説明して、
あとはとにかくやらせます。
やらせたんだから、あとはできるだけ見守ります。
そのとき、できるだけの自由も許します。
やらせたのだから、つねに期待を失わず見守り続ける。
そういう心得が、使う側には必要だよなと、
ボクはそう思っています。

やらせると言ったんだから、
回数で言ったら数え切れないくらい何度もやらせます。
10回や20回とかそんなセコい単位ではありません。

さてこのとき、使われる側の心得が試されます。

苦しいからと早々にやめてしまう、
関係を断ち切るヒトというのがいます。
傷つきながらも、なにかひとつ、
誰か一人に賭けてコミットし続けるヒトもいます。

どちらが良いかと言えば後者です。
このとき「賭ける」ってのがポイントです。
人生は何だって、当たるか外れるか、乗れるか乗れないか、
すべて「賭け」です。
「賭け」なければ道は開けない。
このとき「賭け」たヒトは続けます。
「賭け」ずに、なんとなくというヒトは見切りも早い。

「賭け」たヒトは粘ります。
粘ったからといって上達などなかなかしません。
その間、何度も「裏切り」が繰り返されるでしょう。

おっつ、となりますね。
なんでやねん、となりますよ。
いいかげんにせーや、となっちゃいます。
てめーふざけんなよ、ともなる。

それでも。
使う側は、やらせて見守らなくてはいけない。
何度も失敗すれば、誰だって自分の無力感を認識します。
うんざりするほどの失敗から自己嫌悪になるでしょう。
だけども使うヒトは、使われるヒトの尊厳を損なうようなことは、
絶対に言ってはいけません。

それにしても、現代は余裕のあるヒトが少ないようです。
人間関係の構築は「ちょっと様子を見てみよう」、
時間をかけるほかに手の打ちようがないわけで、
迅速な意思決定を求められては人間関係の構築はできません。

手っ取り早く、深く信頼できる人間関係を構築し、
自分の手足となってくれるヒトを周りに置く。
それってなにかしらのスキルがあればできるんでしょうか。
あったら教えてほしいと、切実に思っています。

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