自力か他力か

学歴社会、詰め込み教育の中で育ったヒト達が、今、官僚になったり、そこそこの会社の中で偉くなっていると思うんだけど、そういうヒトたちってどこか屈折してるというのかな。私はいろんなことを我慢して学歴を手に入れたけど、学歴の低い奴はそれを放棄したんだという恨み、冷たさというのかな、どこか卑屈な感じが露見する。

ボクが小学生の頃、受験勉強で、日本の仏教の宗派が出てきた。その中で、禅系と浄土系があってね。何が違うのかというと、臨済宗、曹洞宗など禅の仏教はとにかく座禅が基本で、自分の心が悟るまで修行するという考え方。

一方で、浄土系、浄土真宗、日蓮宗は懐が深いので仏の持っている力を信じて、あなた自身は修行しなくてもいい。いわゆる他力本願。ただ一つ、南無阿弥陀仏とだけ唱えて下さいという、非常に分かりやすくてシンプルだけど乱暴。これを子どもながらに聞いた時、何を言ってるんじゃ!そんなことないだろう、曹洞宗の方がまともだなと思ったわけ。

ところが大人になってこの歳になると、浄土系のお寺の方が周りに多くて、世の中を跋扈しているのを見ると、どうもそうじゃない様な気がしてきたわけ。青春時代、頑張って勉強してきたヒト達からすれば、南無阿弥陀仏さえ唱えれば全てOKだからって言われたら、はっ!?いいから修行しなさいよって思うだろうね。でも一方では、心ざわついて、修行も出来ない。それが出来れば苦労しないよという声も聞こえる。

結局、目の前の苦しんでるヒトを助けられなきゃ仕方ない、仏としての役割は担ってないんじゃないかと思うんだよね。とすると、この苦しんでるヒト達に出来ることからやってもらう。

とにかく、南無阿弥陀仏だけ言いましょう。ということを繰り返し言っていくうちに、南無阿弥陀仏だけなら言えるかもね、となり、そうしてるうちに、何か気づきはあるかもしれないね。

自力か他力か。とにかく自力なんだというのではなくて、ただ、念仏を唱えればいいというのは、理に適ってる気がして合理的だなと最近思うね。

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