理屈のヒトの恥ずかしさ

理屈っぽいヒトっていますね。こうだからこう、ああだからこうという、思考が直線的なヒトっていうのかな。

高校の入学式で、この中で現役で東大、早慶に行けるヒトはこのくらいしかいない、あとはみんな浪人するんだ。だから、君たちはこの日から現役東大を目指して、かくかくしかじかしなくてはいけません。というようなことを言われてね。

一年浪人すると、一年間の予備校に払う100万円近くと、生涯賃金は年収一年間分、大企業なら数千万円損することなんだからというようなことを言ってたんだよね。

壇上に登って理屈で偉そうに言ってる先生に、結構なクラスメイトが共感してたけど、ボクは何言ってるんだろうこのヒト、そんな先のことなんてわかるわけないのにって思った。

例えばお医者さんは、アトピーには食事を改めた方がいいとか言うけど、食べ物だけからなんてわかるわけないんだよ。食べ物や生い立ち、メンタルの問題、生活習慣、住んでる家の間取り、向き、ありとあらゆることがそういうことになってるわけで、原因は必ずあると思うけど、一個じゃないよね。複雑にいろんなものが絡み合ってなってるわけでしょ。

世の中は複雑なので、一個のことを片付ければ幸せになれますよみたいなことってないと思うんだよね。

でも、強い言葉でヒトをコントロールしようとすれば単純化するしかないよね。そういうことをさもありなんと、ヒトに命令するのはどこか恥ずかしいというのかな。

ボクは、そういうものとは違う生き方、暴力的じゃない生き方、複雑なものをなんとなく飲み込んでいく生き方はできないか、といつも思っていて、そうするとスケールを小さくするしかない。

どこか理屈のヒトが持ってる暴力性に対する嫌悪感、それを暴力だと思っていない、なんなら善意だと思ってる、そういうものの恥ずかしさになんとなく自分は小さい時から縛られて来てるなと、そんなことを感じますが、みなさんはいかがでしょう?

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