不完全である美しさ

カフェとは何か?ということを考えるんですね。

ボクはカフェとは呼んでるけど、やっぱりお茶を供するところだと思ってるんだよね。じゃあ、お茶とは何ぞや?お茶を飲むとは何なのか? 

岡倉天心のお茶の本を読むと、美しいとは不完全なものであると言っている。

人生は不条理で、日々の小さな生活、暮らしが大切だと思うけど、思い通りに行かない中で出来るだけのことをしてみよう、不完全だからこそ、もう少しこうしていこうと挑もうとする。それが人生。そうすると出来上がるものは不完全なものが多いよね。不完全であるということが道であり、それが美しいとボクは思うんだよね。

そういう不完全なヒトが道すがら出会って、ちょうど親愛なる人を亡くしたばかりというヒトと、まさに今わが子を授かったばかりのヒトがたまたま一つの空間に座る。

「春ですね。」

「春ですねぇ。」

お互いお茶を飲んで、じゃあ、と言って帰る。

これが且座喫茶(しゃざきっさ)というのかな。

一人は悲しみの中にいて、一人は喜びの中にいて。でもそれは、かつての自分であるということ。他人の人生も自分の人生も同じで、大きな万物森羅万象のループの中の一つである。そう思うと、歩こうという気になる。

それがお茶の良さだなと思う。

カフェとは、いろんなもの、喜びも悲しみも抱えているヒトが同じ所に座って一服のお茶を飲み、相手が何を思っているか推し量って、想像して、春らしさ、夏らしさ、秋らしさ、全ては五感を通じて補ってなんとなく美しいと感じる、そういう場所の延長にある。

ヒトの気持ちが推し量れない、春なら春の気持ちが推し量れない、秋なら秋の気持ちが推し量れない、月なら月の気持ちが推し量れない、虫なら虫の気持ちが推し量れないことがボクにとっては美しいとは感じない。偶発的に感じるような、ちょっといびつな、でもそれはその時を表しているライブ、それが美しい。

こういうものをMAMEHICOを通じて追及したい。

ボクがやりたいのはそういうことだなと思うのであります。

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